男子の本懐・浜口雄幸、井上準之助
城山三郎(作家)さんが死去した。城山さんは名古屋出身の数少ない作家である。
私と同じ昭和二年の生まれである。『落日燃ゆ』『男子の本懐』を愛読し、私の小冊子『日
本人の心の旅路』に『男子の本懐』を組み入れるべく、私なりに小論として、まとめ了っ
た直後の訃報である。三月二十二日のことであった。
「男ひとり炎の中の道ひとすじに」…この信条そのままに、気骨のある人間を愛した作
家であったと、読売新聞は報じた。城山さんの伝記文学は、時流や権威に流されない生涯
を貫いたリーダーたちを、そのまま映し出している。青年時代から「誠実な正義漢」であ
り、その姿勢は終生変わらなかった。
激動の昭和初期
「男子の本懐」で語られる、首相浜口雄幸は、日本経済が不況のドン底にうめいている
最中、より不況を伴うことを覚悟で、日本経済を、金本位の経済政策に立ち戻らせた。
それは死を覚悟した、浜口雄幸と井上準之助のもの語りである。
そして最後は、自称愛国者と任じた若者の凶弾に倒れた。「殺られるには少し早いな」と
呻いた。浜口の死に、落涙したのは井上であった。
井上もまた、昭和維新を自負した若者の凶弾に倒れた。ぬるま湯に明け暮れる今日の政
界からは、その手段と方法は種々と論ぜられる。だが、唯々死を覚悟して大義に殉じ、「男
子の本懐」とつぶやいた浜口の言葉に心を打たれる。
昭和三年六月、満州一円を支配していた張作霖を、日本軍が支援し、彼を統治者とさせ
るべく期待した。しかし、彼は大元帥を自称し、満州のみならず北京にも勢力を伸ばして、
支那全体の支配者たらんと企てた。だが、蒋介石軍に敗れ、北京から逃げ戻る専用列車が
柳條橋で爆破され、張作霖は死んだ。「張作寮の死は、勢力拡大と共に日本側に背を向けた
のに対し、関東軍の河本大作大佐が、ひそかに抹殺した」との噂が専らとなった。
「満州某重大事件」と日本政府は発表した。外国の報道機関は、日本軍部の犯行である
旨、流し続けた。総理大臣・田中義一陸軍大将は、事件を調査したが真相は不明で、中国
人による犯行説を匂わせたのみ。そして河本大佐に対しては、事件発生を予防し得なかっ
た「警備上の手落ち」として、行政処分に止めた。
事件の処理報告を聞かれた昭和天皇は、田中総理の報告が、曖昧であったことで、「総理
の言うことは二度と聞きたくない」と侍従長に不信のお気持ちを述べられた。
昭和天皇は、関東軍の仕業ではないかと心配されて事件解明を求められた。
田中義一内閣は天皇からの御叱正に堪えられず、直ちに総辞職した。
しかし戦後六十年を経て、ソ連の情報公開によって、スターリンと中共の毛沢東の謀略
であったことが、ソ連側から報ぜられた(『マオー誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン
著・土屋京子訳 上巻の三〇一頁)。
参考:田中上奏文平成20年1月1日記事
憲政の常道
田中義一が率いる政友会の二三七議席に対し、浜口雄幸率いる民政党は一七三議席の少
数の議会勢力であったが、憲政の常道として、後継首班の奏請の任に当たる、元老・西園
寺公望は、さまざまな思惑に目もくれず、民政党総裁・浜口雄幸を次期総理に推した。
昭和天皇は、大命を浜口に下した。浜口にとって総理としてはじまる人生は、華やかで
も光栄でもなく、大きな難を抱え込むことになった。折から世界的大不況の最中である。
政府財政の建て直し、軍縮、特に金本位制への復帰という大問題がある。金本位制への
復帰は、十二年間、八代に亘る内閣が手をつけようとして、つけかねた大事業であった。
経済の行き詰まりを、根本的に打開するには、この方法しかない。このため、国の内外
から望まれていたものの、これを行なえば、当面は極端な不況政策を採らざるを得ないか
ら引き延ばされた。日本経済は貿易によって生きるより、方途がなかったからである。
世界が金本位制である。日本がその流れの中で生きるためには、日本も金本位とせざる
を得ない。文明国の中では、日本とスペインのみがこれに耳を塞いでいた。
浜口雄幸総理は、自らの公約を実現すべき天機と、自らに言い聞かせた。
一党を率いてきた総裁として、政権を担うはどの本望はない0組閣について、党内から
さまざまな注文が出された。その中で最重要なポスト大蔵大臣に井上準之助を迎えた。浜
口が公約であった金解禁に取り組むため、反対党とみられた井上を大蔵大臣に起用した。
浜口は井上に対し、「この仕事は命がけだ、すでに自分は一身を国に捧げる覚悟をさだめ
た。きみも君国のため、覚悟を同じくしてくれないか」と、たたみかけた。
浜口、井上は、世界と同水準に為替相場を落ち着かせ、日本と世界との開きは一割前後
で、緊縮によってこの程度の物価引下げは可能とみた。金解禁は昭和五年一月十一日。
浜口は、「我国の財界にとって、大正六年以来の最大懸案であった金輸出解禁問題も、本
日をもって解決をみるに至ったことは、邦家の為、誠に同慶に堪えない所以である」と、
首相談話を発表。浜口はまた、「官民一致協力して、国家貸借の改善を図り、金本位制の擁
護に努むることが最も肝要である」と強調している。
財政の健全化
しかし、これによって不況は深刻化し、就職率は下がり、知識層の失業者は増え続けた。
金解禁によって、世界の変動相場に準ずることから、財界の一部では差益を得ようと、
投機的な動きも目立った。金解禁が迫った昭和四年秋、国民に節約を強いるが、政府も衝
撃的な官吏俸給の削減を決定した。不況によって物価は三割も下落している。その上、官
吏の減俸であった。国際競争力に堪える為の、止むを得ざる処亀である。
井上蔵相も、「かかる政策で表の不人気を買い、総選挙には打撃をうけるだろうが、経
済困難打開の一途を進むのであるから、人気にとらわれる暇はない」と言いきった。
マスコミは、減俸問題を国民全体への挑戦と受けとり、大々的に反対のキャンペーンを
張った。従って政治家の評価は低く、浜口の娘が、友人の家に遊びに行ったところ、友人
の母親が出てきて、「政治家の子供などと遊んではいけません」と追い返されたはどだった。
岡山で、天皇統監の下で、陸軍大演習が行なわれており、首相としてその陪観に出かけ
ねばならない。
十一月十四日の朝、出発に際し夫人の夏子は、この旅行に、いつになく不安を感じた。
十日前には短刀を持った男が官邸に忍び込もうとして捕らえられた不穏な動きがあった。
「世間がだいぶ物騒なようでございますから、十分警戒なさって、お身にまちがいのあ
りませんように」と玄関で夏子が言った。「政治家だからな、いつ、どういうことがあるか
もしれん、それに、いくら警戒してもやられるときはやられる」と言いおいて出た。
東京駅に着き、駅長室で一服してから、地下道を通ってホームヘ出た。ホームには、人
が溢れていた。幣原外相らが見送りに来ていた。
原敬の東京駅頭での遭難があってから、首相の乗降するときには、ホームに一般客を入
れないようにしていたが、浜口になってからとりやめさせた。それが仇となった。
浜口の歩いて行く前方の人垣の中から、ピストルで狙い撃ちされた。
わずか三メートルはどの距離であった。「ピシン」と云う音がしたかと思った一刹那、浜
口は余の下腹部の異状の激動を感じた。「うむ、殺ったな」と頭に閃いた。「殺られるには
少し早いな」ということが頭に浮かんだ。後日の浜口の『随感録』に書く。
浜口は「ウーン」とうめき声を上げ、歯を食いしばり、額には脂汗がふき出る。近くの
鉄道病院から医師がかけつけた。「総理大変なことに」とつぶやいた。浜口はうすく目を開
けていった。「男子の本懐です」。苦痛は激しかったが意識は明瞭であった。
夫人、次男、末娘などがかけつけた。浜口は「心配するな」。そして「雄彦(長男)を呼
び戻すことをするな、あれも勤めのある身だからね」と。
長男雄彦は日本銀行勤務で、ニューヨーク駐在の身である。「国家の為、捧げてある自分
は、いつどんな非業の最期を遂げるかも知れない、それは覚悟の前であるから、自分に万
一のことがあっても、決して帰国するまでのことはない」と。既に遭言していた。
「秋の雲 影も残さず 消えてゆく」、辞世の句のつもりで夏子に語り、犯人については、
何一つ訊こうとはしなかった、と『随感録』に書く。
安達内相は、大演習の行幸に供奉していて、浜口遭難の報せを聞いた。
安達は直ちに天皇の前に出て報告しかけたところ、陛下は身をのり出して報告のメモを
ご覧になった。安達は、天皇からの見舞の果物籠をお預かりして東京へ引き返した。
天皇は、浜口の身を案じられ、毎日のように、宮中から牛乳やスープを届けさせた。
しばらく浜口の小康と重態が続き、病室には多勢の見舞い客と、沢山の品物が届いた。
浜口の次は井上が危ないと見られた。井上の周朗がそう感じただけではない.「未曾有の
経済困難に際し、現内閣の政策使命の一切は、挙げて大蔵大臣閣下の双肩にあり、大臣閣
下の熱誠なるご努力に侯つのみ。」といった書き出しから、長文の手紙とともに、防弾チョ
ッキが知人から井上のもとに送られた。「ありがたいことだ」と井上はいい、町重な礼状を
認めた。しかし、防弾チョッキはついに身に着けなかった。
再手術、再々手術を繰り返した浜口は、秋を待たず、八月二十六日「みんなの顔がまだ
見えるぞ」が最後の言葉であった。葬儀は日比谷公園で行なわれたが、告別式には数万の
民衆で、二時間経っても延々と続く為、止むを得ず打ち切った。
翌年二月九日、凍るような寒さの中、選挙演説会場、本郷の小学校に着いた井上は、車
から降りて数歩歩いたとき、一人の男が群衆の中からとび出し拳銃三発を撃ち込んだ。
浜口の事件後の苦しみを知っているから、「いっそ一思いにやられたい」と井上は言ってい
たものの、「正々堂々と、合法的に達すべきで、国法を犯し、公安を素すが如き暴挙は、動
機の如何に拘わらず断じて許すべからざる所である」と云う言葉を残した。
半年と経たぬ内に、浜口邸の悲しみの再現である。あのとき男泣きに号泣した井上をめ
ぐつて、また口惜しい泣き声が広がった。そして弔電が国内外から届いた。
昭和初期の日本は、世界的恐慌の只中で、未熟とはいえ、民主政治と、金本位即ち、世
界通貨制度の激流に挑んで来た二人の指導者。その堂々たる覚悟を見習い、財政の再建に
たじろぐ、現在の日本の為政者の手本とすべきだ。 城山三郎著『男子の本懐』参照
平成十九年三月下旬