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国語教育とは、単なる日本語の教育ではありません。それは、日本国民のための言語教育であり、当然、我が国の長い歴史が育んできた、言語文化と伝統に対する認識を深め、それらを尊重する態度を養うものでなければなりません。
しかし、義務教育段階で、子供たちがどのような国語教科書で学んでいるかについては、まだまだ無自覚な国民が多く、結論から言えば、現行の国語教科書は、国民として学ぶにふさわしい「国語」本来の姿とは、乖離していると言わざるを得ません。以下に、今春(平成18年度)から使用されている中学国語教科書について、その全体的な傾向を確認し、現状の問題点を提起していきます。
名文・名作を学べない
◆古典教材の少なさ
中学国語教科書の実態として、いわゆる名文・名作と称される作品群の少なさを指摘できます。
とりわけ特徴的なのは、古典教材の少なさです。
まず、古典教材の割合は、全体の11、4%に過ぎません(平成17年度東京都教科書選定資料「概括的な調査研究」別紙1より)。
なかでも、国語の源泉であり、日本人の形成にも大きく寄与した漢文教材の少なさをはじめ、古文についても付随的な扱いとの印象を免れません。しかも神話をはじめ、国歌の元になった和歌でもある「古今和歌集」の歌(「わが君は千代に八千代に細れ石の巌となりて苔のむすまで」よみ人しらず)などは、戦後一貫して載ることがありません。
しかし、先人の想いが込められ、いつの時代にも脈々と継承されてきた、この国を象徴する言語文化であれば、「歴史」というよりもむしろ「国語」の授業においてこそ、義務教育段階できちんと学ぶべきもののはずですが、こと国語教科書に関しては、従来そういった議論が起こることもありませんでした。これは国民一人一人が、いかに国語教科書に対して無自覚であったかということでもあります。戦後60年間、羹に懲りて膾を吹くといった状態が、国語教科書においてもいまだに続いているのです。
また、神話をはじめ、古文・漢文教材の少なさによる古典の軽視は、『学習指導要領』に教材選定の観点として掲げられる、「国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる」、「我が国の文化と伝統に対する関心を深め、それらを尊重する態度を育てる」、「広い視野から国際理解を深め、日本人としての自覚をもち、国際協調の精神を養う」といった目標の達成からは程遠いものです。
「源泉が枯れれば、流れもない」という警句があるように、いずれの国語教科書も、我が国の子供たちに温故知新の姿勢を持たせるに足る古典教育の教材が、十分に確保されているとは言い難いのが現状です。
◆近代文学作品の少なさ
東京書籍 二年・・・太宰治(「走れメロス」)・※菊池寛(「形」)
三年・・・魯迅(「故郷」)
学校図書 二年・・・太宰治(「走れメロス」)
三年・・・魯迅(「故郷」)
三省堂 一年・・・芥川龍之介(「トロッコ」)・※宮沢賢治(「注文の多い料理店」)
二年・・・太宰治(「走れメロス」)
三年・・・魯迅(「故郷」)・菊池寛(「形」)・※夏目漱石(「吾輩は猫である」)
教育出版 一年・・・宮沢賢治(「オツベルと象」)
二年・・・夏目漱石(「永日小品」より)・菊池寛(「形」)・※太宰治(「走れメロス」)
三年・・・魯迅(「故郷」)
光村図書 一年・・・※夏目漱石(「坊ちゃん」)
二年・・・太宰治(「走れメロス」)
三年・・・魯迅(「故郷」)・森?外(「高瀬舟」)
※は、資料編・選択編としての扱い |
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