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もう一つの教科書問題―国語教科書―
【2】                            牛見真博_

 古典教材のみならず、近代文学の貧弱さも目に余るものがあります。五社に共通する小説教材は、三年次の魯迅「故郷」のみ。続いて、二年次の太宰治「走れメロス」ですが、一社は選択編での扱い。
つまり、我が国の作家で中学生が共通して学ぶ作品はないということです。


魯迅の作品だけが、すべての教科書に載るというのも理解しがたいですが、いずれにしても我が国の中学生が、一覧表以外の近代文学作品については、その作家の名前すら知らないとしても全く不思議ではないのです。使用する教科書によっては、文豪と称される夏目漱石、森外すら学ぶ機会を確保されていないわけです。

ましてや読書の対象として、子供たちがそうした作家の本を手に取る機会など望むべくもありません。やはり、まず子供たちの目に触れる機会が確保されなければ、近代文学の作家やその名作と出会わせることも難しいはずです。

国語教育は、我が国の先人が生み育ててきた言語文化を、後世に継承していく契機としても重要な役割を担っています。そのため、時代をこえて人々に示唆を与え、糧となりながら読み継がれてきた作品こそ、教室で学ぶにふさわしい作品のはずです。

 現行の国語教科書によって多くの生徒が、明治、大正、昭和の戦前期の文章と実質的に切り離されつつあります。これでは、国語における文語の表現を理解できない生徒は増える一方です。しかも、我が国の膨大な言語文化の多くは、そうした文語の理解なしには、読書すらままならないものが多い。それは結果として、生徒から近代文学をはじめとして、文語の作品との繋がりを絶ってしまうことにほかなりません。ひいては、読解力の低下にも拍車をかける危機的な事態であるとの認識が必要です。

また、音楽の教科書ならばともかく、詩の単元において、中島みゆき、小田和正といった歌手の詩が堂々と取り上げられるのも不可解なことです。いわば巷間のヒット曲が、中原中也、高村光太郎、萩原朔太郎といった詩人よりも優先されるというのはどうでしょう。  

国民として継承するにふさわしい作品を取り上げるのが、国語教科書であるという一般的な感覚からは、およそ理解できない教材選定基準があるのです。

 これが「国語」の教材?

◆説明的文章

 また、中島将行「クジラたちの声」、大島泰郎「未来をひらく微生物」、松沢哲郎「文化を伝えるチンパンジー」(光村)、日高敏隆「ハチドリの不思議」、村山司「考えるイルカ」(東書)、大隅清治「クジラの飲み水」(三省)、加藤由子「動物の睡眠と暮らし」(教出)といった具合に並ぶ教材からは、果たして国語の時間を割いてまで学ぶ必要があるのかと、首を傾げたくなるような教材も目に付きます。

『学習指導要領』の教材選定の観点と照らし合わせれば、「人間、社会、自然などについて考えを深めるのに役立つこと」にあたる文章ということなのでしょうが、これらが本当に価値のある文章ならば、むしろ「理科」の教材の一部として用いるほうが、理にかなっているのではないかという疑問を呈さざるを得ません。

 ◆外国作品

 外国作品の多さも目に付きます。チェーホフ「カメレオン」(東書)、ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」(学図・教出・光村)、ウルフ・スタルク「シェークVSバナナ・スプリット」(学図)、トーベ・ヤンソン「猫」(三省)、リヒター「ベンチ」(教出)、ハイム・ポトク「ゼブラ」(光村)などです。

 一般的な国民から見て、名前すら知らない外国の作家が取り上げられていることには、違和感を覚えるのではないでしょうか。さきの魯迅「故郷」もそうですが、夏目漱石や森外をはじめ、我が国の近代作家をろくに取り上げないにも関わらず、これらの外国作品が、我が国の作家に優先するのは、国語教科書のあり方としては、明らかに本末転倒でしょう。そうした教材選定の必然性のなさが問題なのです。

 日本人のための国語教科書を

このように見てくると、日本人としての自覚を育てるという、明確な意図を持って編集されたと思われる中学国語教科書は現状としてはないと言わざるを得ません。「国語」とは何かという観点がすっぽりと抜け落ち、国民として共有すべき言語文化を学ぶ媒体とは程遠い、全く理念のない状態に陥ってしまっているのです。

「国語」は、長い時間をかけて醸成されてきた民族的な情緒や感覚を養い、共同体としての国家の一員であることを意識させるものです。にもかかわらず、古典や近代文学の軽視により、自国の言語文化を共有できなくなれば、国民の文化水準の維持を困難にし、ひいては表面的に同じ言語を話すだけの、外国人の集まりと大差なくなってしまう恐れがありますし、すでにそうした兆候が見られる昨今でもあります。


国家意識や民族意識の分断は、結果として国そのものの弱体化につながります。また、過去の文化遺産を継承することなく、次のすぐれた文化が生まれると考えるのは、横着な考え方でもあります。

日本人は、心を言葉に託すという点においては、類まれな才能を発揮してきた民族です。そうして蓄積されてきた我が国固有の言語文化を、生かすも殺すも日本人の「国語」に対する姿勢にかかっているのです。
そのため、義務教育段階の国語教科書のあり方については、教育現場だけに閉じ込めておかずに、国民的な議論として再検討されることが望ましいはずです。


国民意識の紐帯となる内容を盛り込んだ学習こそ、国語教育の生命線であるという観点から、そうした学習を支える媒体としてふさわしい、日本国民のための国語教科書づくりが強く望まれる所以です。

(付表)


『学習指導要領』第三章―三―二には、教材選定の観点が八項目示されている。

ア、国語に対する認識を深め、国語を尊重する態度を育てるのに役立つこと。

イ、伝え合う力、思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにするのに役立つこと。

ウ、公正かつ適切に判断する能力や創造的精神を養うのに役立つこと。

エ、科学的、論理的な見方や考え方を養い、視野を広げるのに役立つこと。

オ、人生についての考えを深め、豊かな人間性を養い、たくましく生きる意志を育てるのに役立つこと。

カ、人間、社会、自然などについて考えを深めるのに役立つこと。

キ、我が国の文化と伝統に対する関心を深め、それらを尊重する態度を育てるのに役立つこと。

ク、広い視野から国際理解を深め、日本人としての自覚をもち、国際協調の精神を養うのに役立つこと。