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加藤悦康(歴史・軍事研究家)
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【1月13日】下関にいた遊撃隊が秋吉宿に到着し、児玉軍の残した火器・物資を接収しました。10日の勝利の影響か、小郡だけでなく山口も諸隊への支援を表明しました。藩庁は形勢の不利を悟り、世子に明木まで出張してもらい将兵を激励しました。藩庁軍の滞陣している付近の住民を安撫のための巡行をおこないました。本来なら世子の出張に合わせて予備軍を投入して、士気・戦力共に再編するわけですが、士気面しか手当てできないところからも藩庁の形勢不利が感じられます。

【1月14日】10日の敗戦の恥をそそぐ意気込みで、栗屋帯刀が萩野隊を率いて、明け方から長登方面より攻撃を開始しました。諸隊は長登から呑水まで後退し、奇兵隊・御盾隊・南国隊が迎撃しました。激戦を続けているうちに遊撃隊の一部が到着し、大木津の間道から藩庁軍の中軍左翼に側面攻撃をしかけましたので、敵は耐えられず、赤村に退却し、藩庁軍の攻撃は失敗に帰しました。

【1月16日】高杉率いる遊撃隊主力も到着しました。山県以下諸隊の幹部と作戦を協議し、赤村攻撃を決定しました。16日薄暮より行動を開始し、夜襲を敢行しました。高杉が遊撃隊を率い、燈火をつけて敵の注意を引き付けながら中央を進みます。山県の奇兵隊以下諸隊は、左右から無燈火で進撃しました。この陽動作戦は成功し、藩庁軍は敗れて赤村を捨て萩に総退去しました。この戦いで遺棄された火器類は、一個諸隊を編成するに足る量でした。
 赤村での会戦に勝利した諸隊ではありましたが、高杉の主張する明木・萩攻撃策と、山口(山口県山口市)に転進して根拠地を固める策が対立しました。ここでは、他の幹部が山県案に賛成したため、高杉が折れて山口転進に決定しました。諸隊の士気は上がっているものの、2週間にもおよぶ戦闘期間は多くの将兵に休息を必要としており、補給線の延長も不利な要素といえるだろう。

【1月19日】諸隊は大田を引き上げ山口に転進し、明倫館を本営に兵力を各要地に配置しました。こうして、山口を中心に小郡・三田尻方面に諸隊の基盤が築かれました。こうして山口は正義党の根拠地となり、萩は俗論党の根拠地となりました。ここにおいて長州内の内訌は終結し、問題解決は軍事から政治へと移行しました。クラウゼヴィッツの言う「戦争は政治の延長線上にある」の一例でもあります。

 連戦連敗で意気消沈している萩の藩庁では、正義党の一団体が内訌を収めるために立ち上がりました。諸隊追討の兵を止めて藩論統一を図ろうという団体で、自ら鎮静会議と称しました。その主張では、内訌が発生するのは藩庁(俗論党)のやり方に問題があるので諸隊の意見を聞いて俗論党の幹部を罷免して、藩論上下一致するというものでした。この主張に同調する人数が200人にも達し、藩主父子もこの意見を入れ、椋梨藤太以下の「謝罪恭順」派を追放しました。ここにおいて藩論は一転して尊王の大儀を推し通して、防長一致して幕府に当たることを確認しました。
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