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加藤悦康(歴史・軍事研究家)
⇒前からの続き

考察

 一般に攻撃成功には、攻撃側は防御側の3倍の兵力が必要と言われています。大田絵堂の戦いにおいて、藩庁側の1.900名に対し、諸隊の兵力は明らかではないが優勢であったとは思えない。
 部隊の展開を地図上に配置してみると、諸隊は大田を中心に藩軍から半包囲状態にいることがわかります。小郡を策源地として大田を劣勢な兵力で防御している状況では、攻勢に出る余裕はなかったものと思われます。7日深夜の奇襲で士気が上がった諸隊が10日の藩軍の攻勢まで行動を控えていたことからも伺われます。諸隊は内線作戦に徹し、敵兵力の削減と士気の崩壊を図った後に攻勢に転じる計画と思われます。予備戦力の有無の大小が大きな影響を持つのですが、藩軍の予備兵力がどのくらい拘置されていたかは定かではありませんが、13日の再編時に兵力の再投入が行われなかった事を見ても予備兵力がなかったことを伺わせます。一方、諸隊側には無傷の予備兵力とも言える、高杉の率いる遊撃隊が存在しました。結果として諸隊の作戦勝ち作戦勝ちとも言えると思います。
 功山寺の挙兵からの流れを見ていると前もって計画されていたとはとても思えず、歴史の流れに乗っているような感じがします。高杉と山県は袂を別れた後でも、結果として連携していたようです。会戦の初期段階で高杉が存在していれば、諸隊は攻勢を取ったであろうことは、高杉の正確からも想像にかたくありません。その場合、会戦の行方は。そしてその後の歴史の流れは・・・・。

絵堂・大田の戦いの評価

 一般には高杉の功山寺が高い評価を受け、絵堂・大田の戦いはあまり評価されていないように言われています。しかし、私の見るところ功山寺挙兵は高杉の意思表明であり、大きな結果は生じていません。俗論党の諸隊追討は時間の問題であり、諸隊が降伏しないかぎり、内訌は避けられなかったと思われます。大田で山県が自衛のために戦闘を開始したことからも伺えます。そして、会戦の勝利が政治状況の変化をもたらし、俗論党の失脚、藩論の反転に繋がりました。
 西洋式軍隊の力を長州藩自ら体験したことになり、そのノウハウはいかんなく第二次長州征伐線で発揮されました。その後、越後、会津、五稜郭と連勝し、この伝統が明治時代に「陸軍の長州」と呼ばれることになりました。                                      (了)