岐阜李登輝友の会台湾研修ツアー
平成22年10月28〜31日 【初日】 六氏先生と芝山巌事件
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 日清戦争後、下関条約により1895年、台湾は日本に割譲された。日本による統治は、教育を最優先することを旨に教育者を日本全国から集め、文部省学務部長、伊沢修二と7人の教師が台湾へ渡り、芝山巌学堂(小学校)を設立し、周辺住民に受け入れらた。
 同年、台南にて北白川宮能久親王殿下が薨去され、伊沢修二と教師の一人、山田耕造が、親王の棺とともに日本へ一時帰国。
 日本統治初期の頃は、抗日運動が頻繁に起きており、、伊沢らが帰国中、治安が悪化したことから、住民から教師達に避難を勧められたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸け、芝山巌に残った。翌年、元旦の拝賀式出席のため下山中、100人の匪賊に遭遇、教師達はゲリラに論説したが、聞き入れられず、6名の教師と1名の用務員は惨殺された。
 彼らの犠牲精神は「芝山巌精神」として人々に語り継がれ、台湾教育者に影響を与えた。1986年7月1日、伊藤博文による「学務官僚遭難之碑」が造られた。写真左は2000年に復元されたもの。
 日本統治直後、総人口の0.6%だった台湾の就業率は終戦前には70%となり、識字率は92.5%となった。
 戦後、国民党により芝山巌神社は破壊されたが、恵済宮住職が、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀った。台湾が民主化され、芝山巌学堂設立100年、1995年に後身である、台北私立士林国民小学校卒業生により、「六氏先生の墓」が再建された。
■山口県、楫取道明 (38歳)
■愛知県、関口長太郎 (37歳)
■東京都、桂金太郎 (27歳)
■群馬県、中島長吉 (25歳)
■山口県、井原順之助 (23歳)
■熊本県、平井数馬 (17歳)
 こうして、我々も下山。
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