岐阜李登輝友の会台湾研修ツアー
平成22年10月28〜31日 【初日】 蔡焜燦・黄昭堂両先生を囲んでの夕食会2
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 蔡焜燦:1927年台中県生まれ「知日派」「愛日派」で知られる。体育教師からサラリーマンを経て起業家に。セイコー電子台湾法人会長などの事業に携わり、半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」の会長を務める。
 司馬遼太郎「台湾紀行」では、老台北という愛称で登場し、最近では、小林よしのり氏「新ゴーマニズム宣言、台湾論」にも登場し、日本人の若い世代にも馴染み深い存在。

 岐阜李登輝友の会の皆さん、田代名誉会長、村上会長。ようこそ台湾へおいでくださいました。私の大ボスは李登輝閣下、こちら(黄昭堂氏)は、小ボス、どちらも私のボスです。
 ボスの命令で「台湾李登輝民主協会」をやれ!日台間はお前以外いない!と、そう言われた。御老体、はじめは、「頼む」と言ってきたので断り、「何故、命令しないのか」と言って、受けた。
 岐阜は、縁がある。梶原知事が、岐阜県を「ITの県」にしようとして「台湾のシリコンバレー」と言われているところを見学にきた。ITデザイン会社をやっていたので、お供をして説明してあげた。台湾商業学校時代の凄い校長が、加茂郡におられ103歳の天寿を全うされた。その校長が白寿ののとき、他の教え子達と一緒に祝いに飛んでいった。
 下呂温泉、飛騨高山、関で正式に日本刀を打っているところを見た。鵜飼で十六代鵜匠に会った思い出がある。終戦前、各務ヶ原にある岐阜陸軍航空整備学校へ通った。(本当なら奈良だったが)敗戦後、京都の山奥で炭焼きをした。
 そのときGHQが清算した、124代天皇家の財産が当時の値段で19億円。蒋介石の野郎は、日本人が台湾に残した財産が100億円以上ある。だから「戦争賠償を放棄した」と言っているが、今なお国民党は、世界で一番金を持っている政党である。
 10月28日、今日がどんな日であるか。昨年、4月にNHKが我々の世代を集めて、インタビューをした。いいこと悪いことを言ったが、いいことを全部消してしまった。「日台戦争」という言葉を使ったが、そんなものは無い。1万人以上でNHKを訴えている。日本でその中心になっているのが李登輝友の会が頑張ってくれている。
 毎年12月、靖国神社で祀られている台湾の英霊三万柱の慰霊祭を行っている。その中には李登輝閣下のお兄さんである岩里武則海軍上等兵も祀られている。
 日清戦争終結後、平和条約で、清国は日本へ台湾を割譲したが、日本の要求の第一条は、朝鮮の独立を認めることである。しかし、朝鮮の独立後もやはり、危なっかしい、朝鮮人自身も自分達が危ないと思っているから日韓併合となった。台湾が日本の領土となって遅れること15年。つまり今年は「日台戦争(NHK揶揄の意味で)115年」となる。
 台湾が日本の領土となった。この頃は、植民地という言葉は無い。それに反抗する者があったから、北白川宮能久親王様(近衛師団長・陸軍中将)が台湾征伐にきたが、10月28日台南で薨去されました。115年前の今日です。天照大神、能久親王殿下を祀る、神宮、神社が沢山あったが、蒋介石が来て破壊しまくり、空港近くの桃園神社のみ残った。しかし、支那の蒋介石も知らなかったが、台湾へ長野善光寺別院を造り、能久親王とお姉さんのお位牌を祀って、約20年前までは日本語でお経を上げていました。それが台湾人なのです。「日本に好く見てもらおう」というものではない。
 戦後、台湾、朝鮮、樺太を植民地という言い方になった。しかし、台湾より16年も遅れて日本人になった朝鮮人が台湾人より早く、日本兵になる資格を取った。終戦直後、フィリピンで処刑に遭った洪思翊陸軍中将がいたが、支那事変で日本兵として戦う朝鮮人の姿を見て、子供心に不公平に感じたものだ。「何故、台湾人が兵隊になれないのか」と、しかし今の朝鮮はどうか。日本の悪口ばかり言っている。そこへダラ菅の空き缶(菅)のチンプン菅があのように謝っている。おかしいですよ。李登輝閣下が沖縄へ行ったとき、堂々と「尖閣は日本の領土」と言ったが、台湾と日本は運営共同体であり尖閣は守っていかなければならない。加瀬英明先生や櫻井よしこ先生も自衛隊派遣を言っている。大賛成です。ただ、ア菅ですわ。与那国にはピストルひとつしかない。だから、皆さん頑張らなければならない。頑張らないなら、次から「岐阜の方、日本へ帰れ!」と言うから(笑)。今夜は、呼んでくださり有難う、1300年の老舗、手作りパイナップルケーキをどうぞ。
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