岐阜李登輝友の会台湾研修ツアー
平成22年10月28~31日 【2日目】 李登輝元総統表敬訪問
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早速、李登輝元総統講演

 岐阜李登輝友の会の皆さんこんにちは。私は、「台湾と日本。百年来の歴史、今後の関係」という内容で皆さんにお話したいと思います。最近は尖閣列島が問題。
 アメリカは、はっきりと尖閣は日本の領有と言ったが、私は前から言ってきた。中国社会と香港からやってきた一部の台湾人「愛国同心会」というのが妙な働きをやって漁民達を先導している。今の指導者も関わっている。このことは今日は話さないが、皆さんもいずれ分ってくる。尖閣列島を中心に漁場にしている問題。これは、日本・沖縄、台湾は、もともと同じ国として台北で管理していたが、戦後、違う国になった。これは、解決しなければならない問題であるが、まずは、皆がこのことに疎い。
 台湾と日本は西太平洋に位置する島国で、経済や人の交流が密接。私は、今日、台湾の立場で、三段階に分けて政治と文化を話します。 第1段階は、1895年から1945年の台湾の日本統治時代。第二段階は、1945年から1990年までの国民党統治時代。第三段階は1990年から今に至るまでの状態。
 日本統治下の台湾は、近代化の道を切り開いた。このことを日本人はよく知らない。日本の歴代総督、特に第四代児玉総督の下に新渡戸稲造や後藤新平など偉大な指導者がいた。
 また、烏山頭ダムの八田與一、それ以前にも、世界で造られたことのない、地下ダム。後藤新平は、台湾の完全なる近代化を成した。司法制度、自治制度、政治制度、交通では、基隆から高雄の鉄道など。
 台湾は、日本を良くいうが朝鮮は良くいわない。台湾は、伝統的な農業社会で社会・政治組織が出来ていないところを近代社会へ邁進させた。近代工業資本主義の経済観念を入れ、台湾製糖株式会社の設立は、台湾の商的工業の発展となり、台湾銀行の設立は、近代金融経済を取り入れた。
 1908年、縦断鉄道の開通は、南北の距離を縮め、嘉南大圳や日月潭の水力発電所の完成は、農業生産力を高め工業先進化へ大きく一歩を踏み出した。行政では全島に統一した政治組織が出来、公平な司法制度を敷き、新しい教育を導入した。1925年台北高等学校、1928年には台北帝国大学が創立。台湾人が大学に入る機会を得た。台湾のエリートが増え、台湾の社会が日を追って変化し、時間を守る、法律を守る文化が出来、台湾人に大きな変化をもたらした。
 台湾人の地位が日本人より低いことに気付き、台湾意識が芽生え、台湾運命共同体を形成するようになった。台湾人は、様々な社会団体を作り、自決・独立など主張するようになった。まだまだ、主張して日本側の制圧にあった。「台湾は台湾人のためにある」という一致した考えが浸透し、戦後、国民党に向けられる基本的な考えとなる。

 1945年、戦後、マッカーサー司令官が国民党、蒋介石に「台湾軍を接収し、統治しろ」と命令した。蒋介石は、日本語を抹殺し、台湾の中国化を図った。彼らは、日本時代とは、まったく違うやり方、法律は守らない、汚職はやる。その後228事件という大きな事件が起き、暴動は全土に広がった。 この事件後、国民党は大陸から軍隊を入れ「白色テロ」を行った。
 「これは日本の影響だ」として、日本語、日本の雑誌、映画などを禁止し、台湾人を中国人に変えようとした。これが、「反日教育」「排日運動」だ。台湾の若者は徐々に日本離れをした。台湾の歴史に何があるか教えない。おおっぴらに日本を語れない。そして、台湾人リーダーが殺され、リーダーになる人物がいなくなった。私が妻と結婚するときの条件は「口を閉めなさい。言いたいことは言わない。何も言ってはいけません」だった。
 1949年、国民党は、台湾に戒厳令を敷いた。その後、大陸の内戦で敗れ台湾に退いてきた。そして、政権を堅固なものにするために多数の反体分子を逮捕(白色テロ)。井伊大老が吉田松陰たちを殺したような状態だが、台湾の方が長い、38年続いた。国民党は、大陸反攻を目論み独裁体制を敷いた。1987年、戒厳令がやっと解かれた。これは、前代未聞であり、台湾人は、言論や結社の自由を奪われ続け、全ての学校で中国の文化、歴史を教えられてきた。
 日本時代の教育である正直・真面目・国のためにはたらく、という若者がいなくなった。中国の歴史は五千年の皇帝の歴史、ひとつの中国、中華帝国となる。蒙古は野蛮な国。台湾は、化外の地といっていたが、今の中国は、台湾は中国の一部と叫び自分に入れようとしている。
 日清戦争後、清は伊藤博文に「化外の地ならあげる」と言っている。今更、台湾は、中国の一部と言っているのは、間違いだ。尖閣列島も中国には関係ない。ないことをあるように時間を掛けて造り上げる。
 戒厳令体制を破るために、台湾のエリートは、時間を掛け、多数の犠牲者を出して、倒れても止まず、絶えず奮闘した結果、ついに国民党は譲歩した。
 私、李登輝が台湾人として総統に就任した12年間は、何とかして台湾人民の期待に沿うことができるよう、自由化の政策を実行した。
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